映画の中の「食糧」と「食」
やっと滋賀会館の上映最終回に観に
行って参りました。
映画「いのちの食べ方」
雨も降ってるのに結構沢山の観客の方がいらっしゃいました。
始まってから終わりまで一言も聞き取れるような台詞がありません。
畜農産物のいのちの芽生えから製品としてスーパーに並ぶまで。
この映画には起承転結もありません。
喜怒哀楽もありません。
今、何をやっている所なのか、何の解説もありません。
水をやってるのか、農薬をまいているのか、なにも解りません。
弁明も非難もない。
ただ、決められたマニュアル通りに機械と労働者は働くのです。
農業を「食糧の生産」の手段だとすれば、工業生産を描く事になるのだと言う事を知らしめる、
いや、突きつける映画でした。
私事ですが、うちのワンコ
のグスタフが椎間板ヘルニアをわずらい、この日、手術を受けました。
手術をして、一週間も入院で、犬自身、寂しく、心細い思いをしてるでしょうが、
飼い主の私もとっても胸痛む日々を送ってます。![]()
一方、この映画の中での魚や豚や牛、鶏など「食べる為に産まれた命![]()
![]()
」は何ものからもチリほどの愛情や哀れみを受ける事もなく生死を繰り返しています。
同じいのちとして産まれたのに、愛情の対象として馬鹿馬鹿しい程に金銭や手間をかけられるペットと食用動物達。
あの哀れな食用動物達を見たら肉を食べる事に罪悪感を覚えるようになる人もいる事でしょう。
では、私が肉を食べなくなれば彼らは浮かばれるでしょうか?
農業であれ、工業であれ、業(ぎょう)というのは「業(ごう)を背負うもの」で、
生産者だけでなく、消費者までも誰もこの「業(ごう)」を引き受ける事を拒否する事はできないと思う。
ライオンがシマウマを食べるのを「残酷だ」とは言えないように、
人間としていのちを繋ぐのに肉も必要であり、食文化であるからです
。
ただ、私たちはもっと食べる物に敬意を払わないといけない。
自らのいのちを持って私たちの血肉になってくれてるものに。
この無機質な生産っぷりは、私たちが便利に安くいつも安定した食糧を得ようとするならば、
コスト低減、効率、大量生産を望むのならば、
こういう風にするしか道はないのかもしれない。
全ては徹底的に「消毒」「殺菌」され、そして「ベルトコンベアー」で大量に処理され流れていきます。
最後まで、工場の轟音のみで音楽の一つもない、エンディングテーマ曲もない。
途中、いくつか工場や農場の現場で働く労働者の食事風景が挿入されています。
映画の原題の「Our daily bread(日常の糧)」。
砂を噛むような表情で簡単な食事をとる。
そこに喜びも感謝も差し挟む余地もないような日常がありました。
環境や動物にだけでなく、この生産の現場で働く人々に精神的、労働環境としても相当な負担がかかっていることでしょう。
この現実を否定できないとしても、やはり
「どっか、もっと他の道があるんじゃないの」と思ってしまうのです。
来週はこの滋賀会館で「映画の朝市」。
農業が幸せで、楽しいという農家さんの映画です。
ロビーには「映画の朝市」というタスキをかけたかかし君がにこやかにキャンペーン中でした。
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